7月7日は・・・ [E-P2]
14年前に亡くなった父親の命日です。
「父親がいたら、仕事を継いでいたのかなぁ~」って思わなくなってます・・・
今日も残業だったので、久々の4日連続になりました。
水分補給のため、毎日、ペットボトル500mlを2本(中身は浄水器から入れた水)、
保冷材入れたバッグも出勤時(車通勤&車移動)に持ち歩くようになりました。
ビタミンドリンクは「チオビタドリンク」と、最近、リニューアルした「ハイシードリンク」をたまに飲みます。
以下は、5年前のブログで、同じく7月7日にアップした記事です。
14年前と比べたら、絶対、暑くなっていると思います。
大学3回生、20歳。
その日は梅雨の中休みの日曜日だった。
近くのスーパーにアルバイトに行っていた僕は、朝9時前に起き、
食事をとり、TVを見ながら時間をつぶした。
13時からシフトを入れていたので、そろそろ出かけようと、2階へ・・・
なにやら話し声が聞こえたので、部屋を覗くと、父親が布団の上で体を横にした状態で、
TVを見ていた。確か、将棋か囲碁の番組だった。
僕:「あれ、今日は仕事に行かないん?」
父:「ん?行くよ。御飯、食べてからね。」
僕:「そう、じゃあ、今からバイト行ってくるから・・・」
そう言い残して、階段を下りて、玄関へと向かう。
靴を履き、玄関扉を開けた・・・
ごくごく普段と変わらなかった。
しかし、その時、見た姿が父親が「生きていた」最後の姿だった・・・
父親は税理士の仕事をしていた。
神戸から横浜の公立大学へ進んだ後、卒業して自動車メーカーに就職した。
上司とあわなかったらしく、数ヶ月で退社。
その後、神戸の食品卸会社に就職し、そこで母と知り合い、結婚した。
ある日、高校の同窓会の2次会の席で、友達らに会計の道を勧められた。
その友達も弁護士や司法書士への道を目指していた。
もともと勉強は嫌いでなかったので、一念発起し、税理士になるため、勉強を始めた。
お昼は普通に会社に行き、帰ってきてから、税法の勉強。
税理士試験の何日か前は、普通に出社して、自宅に帰ってきて、食事をとり、
その後、朝の5時まで勉強して、2時間仮眠して、また仕事に行っていたそうだ。
仕事をしながらの勉強を10年経て、見事、税理士試験に合格した。
当初は、税理士としての仕事が来るはずもなく、会社勤めは続いた。
しかし、税理士に集中したかったので、紆余曲折ありながらではあったが、
数年後、独立するまでになった。初めは自宅兼事務所だったが、
後に、きちんとした個人事務所を持つまでになった。
仕事も順調に進んでいったかに見えたが、災難が続いた・・・
1994年の秋、体調不良を訴えたため、母親と一緒に病院へ。
母親の親戚にあたる医師が主治医になってくれた。
胃がんだった。本人には胃潰瘍であるという告知をし、12月の初めに手術をした。
手術は成功。胃の3分の2を取り除くものになったが、転移は見られない。
恰幅の良かった父親の体型は、その後、見舞いに訪れた僕達兄弟を驚かせた。
手術前の父親の姿でなく、少し、頬がこけた、白髪交じりの父親がそこにはいた。
本当は、その後も顔を出したかったが、大学受験を控えていたので、
父親から「別にこんでいい。それより勉強せい」と釘をさされていた。
年も明けた、1995年。術後の経過も良く、15日に仮退院ということで、自宅に戻ってきた。
そして、また病院に戻る予定だった17日・・・阪神・淡路大震災が起こった。
自分の体がままならない状態にも関わらず、翌日、往復8時間かけて仕事の顧問先廻りをし、
ほとんど休みをとることなく働き続けた・・・自分のことより、他人のことを優先していた。
21時にアルバイトから帰ってきた僕は、母親に「あれ、お父さんは?まだ帰ってないん?」と尋ねた。
15時に家を出てから、帰る前に連絡が入るはずだったが、まだ連絡がないとのこと。
その時はそのまま晩御飯を食べ、テレビを見ていた。
23時。未だ、父親からの連絡はなし。
事務所に電話するも、呼び出し音が続く。
「久々にどっかで飲んでるのかなぁ・・・」。
日付が変わった7月7日。
携帯電話にかけるも、同じく呼び出し音が止まないだけだった。
父親が免許を持ってなかったので、当時、自家用車はなかった。
もしかしたら、疲れて事務所で仮眠を取ってるのかもしれないと思ったが、
迎えに行った方がいいということになり、タクシーを呼んで、父親の事務所へと向かった。
30分後、父親の事務所の前にタクシーを待たせて、階段をのぼり、自宅に置いてある
合鍵を使って、扉を開けた。声をかけるも、中は真っ暗で、人影はない。
「やはり仮眠してるのかな」と思い、すぐ近くに借りているもう一つの事務所にも顔を出した。
その部屋は、1Kの部屋で仕事も出来るが、仮眠用のベッドも置いていたのだ。
しかし、ここにも、父親の姿はなかった。
タクシーを待たせていたので、あせっていた。 ここでも、公衆電話から携帯電話へかけるが、
つながらない。再度、本事務所へと足を運び、鍵を開けて、まわりを見渡すと、
先ほどは気づかなかったが、トイレの灯りがついてるのに気づいた。
何故、さっきは気づかなかったのだろう・・・
事務所の電気をつけ、部屋の奥にあるトイレの前へと歩み寄る。ノックをするが返事がない。
ノブをまわすと、鍵がかかってなかったので、そのまま扉を開けた僕の目の前には、
横たわっている父親の姿が目に飛び込んできた。
一瞬、立ちすくんだ。次の瞬間、父親の体を何度も揺すりながら、
「お父さん!お父さん!!」と何度も大声を出した。返事はない。
気が動転して、頭の中が真っ白になりそうだったが、すぐに119番に電話した。
その後も、父親の体を揺すり続けた。
救急隊員が来るまでの10分間はとても長く感じた。
たぶん、今までの人生の中で一番長い10分間であった。
時計はすでに、2時をこえていた・・・
心肺停止状態であった。救命措置も及ばなかった。
その後、救急隊員の方が警察を呼び、
僕は第一発見者ということで、最寄の派出所に行き、事情聴取を受けた。
発見するまでのいきさつ、発見してからの行動・・・
3時間が過ぎ、派出所を出る頃には、外は明るくなっていた。
気丈にと思っていた気持ちは、迎えに来ていた家族の顔を見た途端、泣き崩れていた。
お通夜が過ぎ、葬儀になった日のお昼、出棺をしている間、それまで晴れていた空から、
大粒の雨が降ってきた。まるで父の死を惜しむかのように・・・
その後も、涙が頬を伝わる日は続いた。
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